• トップページ
トップページ > 取扱商品
取扱商品

器の郷 ひろ埜は、佐賀県伊万里市に事務所を構え、窯元より直送販売の焼き物を取り揃えているのが特徴です。お取引窯元も人間国宝の井上萬二氏(白磁)、日展評議員の前田泰昭氏(辰砂)、伝統工芸士マイスターの市川龍仙氏等々、我が国を代表する方々と直接お取引をさせていただいております。

伊万里焼・有田焼・現川焼等、我が国を代表する窯元の品々が充実し、一般食器から美術工芸品に至るまで、品数・品種共豊富に取り扱いを致しております。

伊万里焼

伊万里焼は有田の陶業が盛んになるにつれ、波及してできたものです。有田焼の後輩でありますが、やはり鍋島焼(献上品)の風情が漂います。当初より茶道や華道などの精神文化的品は無く意匠性や実用性を重んじた日用品を多く作っております。皿・鉢・瓶・人形などが多く「産業」を意識したようです。絵柄や色調も優しく、品格も良く、古伊万里とはまた違った風情があります。1700年~1800年になり、庶民にも手が届く手ごろな品も作られ、その魅力が少しづつ知られるようになったと思われます。

三方を険しい奇岩に囲まれた大川内山に生まれた鍋島焼。献上品として重用された逸品とその影響を持続する伊万里焼。庶民の力強さを継承する有田の古伊万里。この三種を統合しますと常に前例に囚われる事なく改革に挑み、過去を尊敬しつつ新しいことを確立する事を積み重ねる事が伝統を明日につなぐ事ではないかと思います。

鍋島焼

鍋島藩(現在の佐賀県と長崎県の一部)は関ヶ原の戦いに敗れ、外様大名となりました。徳川家への恭順の意を示すため、献上品の必要に迫られた結果、生まれたものです。もっとも、この献上品は親藩、普代、外様の全大名に賊課させ、参勤交代の様な責任の重い義務であったと言われております。取り分け外様大名への賊課は重く、頭の痛い問題でありました。

藩は有田(古伊万里)の優れた技を持った陶工を御用陶工として迎え、一心不乱に腕を磨き、必要な素材・備品などを総べて藩の費用とし、給金も支給されたものです。 結果、あの典雅な鍋島焼と称される献上品が誕生したのです。陶工は総数27名とあり、その他、下働きの方も少数かかえておった様です。種類は皿が圧倒的に多く、3寸・5寸・7寸など10枚一組にして献上されました。

1.藍鍋島:呉須(コバルト)だけで藍色に発色させたもの。
2.色鍋島:藍鍋島に赤・黄・緑で加飾したもの。
3.鍋島青磁:陶石に含まれる鉄分を釉薬として、使用したもの。

上記の様に大別され、特に色鍋島は日本磁器の中でも出色の逸品とされ、今日も燦然と輝いております。紋様は日本国、徳川家の繁栄と発展・平和を願い鍋島家の同様の意味が込められました。その為、松や竹、桃、石榴、唐花などの吉祥文が多く描かれ、繊細徴細、薄色にて、上品優雅に舞っており、約400年の日時を重ねております。鍋島家、最初にして最大の秘技が徳川260年の封建時代を掛け抜けたと申せましょう。なお、鍋島焼は伊万里焼に含まれます。

有田焼

近世、豊臣秀吉による2度の朝鮮出兵により、戸来陶工として来日した李参平が有田泉山にて陶石を発見したことから始まり約400年(1616年)、本日まで続いております。 それまでは唐津系の土物陶器を作っておりましたが、それを境に有田は磁器(石を素材とする焼物)の一大生産地へと発展し、今、現在に至るまで窯の火が輝いております。

途中、大火災や燃料となる木材の伐採過多による水害苦難の連続であったようです。当初、器の素地も荒く、厚ぼったく、白さも低く未熟な物でありましたが、次第に成熟・洗練されていきます。有田焼は藍色だけの染付から始まりましたが「初代 酒井田柿右工門」が、中国人から教えを受け、日本人で初めて赤絵を成功させて以来、一気に華やかな焼物が出来たようです。線が太く、ダイナミックな絵付けは力強く、色調も明確な主張が感じられます。

紋様は鍋島様式と違って決まったものではありませんが、日常の生活を描いた風俗的なものが多く、パワフルで自由活達。優美さも凛々しさも併せて持ち合わせ、当時としても最高の逸品であったと思われます。古伊万里、古伊万里様式と称されるものや伊万里鍋島様式より先輩であり、また有田は山の中にあった小さな山村であった為、海はなく船による輸送は不可能であり、馬車や人力車で山中を超え伊万里津(港)へ運び、そこから他国(藩)への販売や海外輸出などの商い(ビジネス)を展開させたため、古伊万里と呼ばれていたのです。

現川焼

現在の長崎市で焼かれていた陶器。粘り気が強く鉄分の多い茶褐色の器肌が特徴です。九州の土物には珍しく薄造りなことも目を引き、多種多様の刷毛目と加飾が施されています。

江戸時代には『京の仁清、西の現川』とまで謳われることもありましたが一時は突然途絶えてしまった歴史があります。明治時代に、十二代横石臥牛氏によって再興され現在は長崎県佐世保市にて製作されております。

業者様へのご対応も可能です!

設計業・建築業様への新築・リフォーム時の手洗い鉢・スイッチプレート類等の卸、承ります。飲食店様への業務用食器をはじめ、贈答・返礼品にも対応致しております。業者様もお気軽にお問い合わせください。

焼き物が出来るまで

有田 泉山でとれる磁石を採掘し粉砕、不純物を取り除き使用します。ここの陶石は白色で硬く焼成できるもので、現在は熊本の天草地方で採掘された『天草陶石』も用いられています。

焼き物の形状は轆轤や型打ち(轆轤で大まかな成形をしな半乾きの素地を土型にかぶせ叩き締めて形を整える)の方法があります。左写真は轆轤をしているところです。

生地を乾燥・素焼後、下絵付け(文様の輪郭)を施し、その後、濃み(だみ・呉須という藍の顔料を用いて塗る)を施す。左は濃み(だみ)を施している写真です。

生地に藍の線描きをし、濃みを施したところです。これから釉薬をかけた後、1300~1400度で本窯に入れ焼成すると呉須(ゴス)で描いた部分は藍色になります。この時光沢が出て硬質になります。

本窯で焼成することにより、 生地が真っ白で光沢が出て藍の発色が際立ち、硬質になります。
写真右側は焼成前。写真左側は焼成後。
(本窯焼成すると生地が二割程度収縮します)

次に上絵付け(色絵)の線描きをし、上絵(赤・黄・緑)の濃みを施し赤絵窯(800度)に入れて焼成し、窯の温度が下がったら窯出しして完成。写真は色絵の絵付けをしているところです。

登り窯の写真です。以前は登り窯を用いていましたが、現在ではガス窯や電気窯なども利用されています。上絵付け(色絵)の線描きをし、上絵(赤・黄・緑)の濃みを施し、赤絵窯(800度)に入れて焼成。温度が下がったら窯出しし完成。

Copyright UTSUWANOSATO HIRONO. All Rights Reserved.